1977年4月17日生まれで兵庫県相生市出身、針山愛美さんが自身の波乱万丈な反省を振り返っていきます。
■目次
針山愛美の経歴
衣装とトゥシューズをキャリーバッグに詰め込んで世界各国で講演・審査員・パフォーマンスをこなす、「空飛ぶバレリーナ」針山愛美とは?
ピアニストの母親の影響で物心ついた時からバレエを始めた著者は、5歳になった時に初めてトゥシューズを履きます。
ロシアやドイツの国立バレエ学校では、10歳になってからでないと履かせてもらえません。
日本人のバレリーナに外反母趾が多いのは、足が大きくなる前に履いているからではないのでしょうか。
著者は世界を目指す日本の若者のため、トゥシューズ工房を訪ねるプログラムを支援しています。
自身の足にぴったりフィットするシューズを選びの大切さを、誰よりも知っている針山さんらしい地道な取り組み。
初めて見たバレエ公演が8歳の時に来日したボリショイ・バレエ校
彼女自身が海を渡ってロシアへ留学をしたのはその8年後のことです。
世界トップクラスの芸術監督やダンサーを輩出し続けている名門校だけに、ハードなレッスンに耐える身体能力と高レベルな授業についていく語学力は欠かせません。
さらには大通りを戦車が駆け抜けていき路地裏では犯罪が多発、気温は零下20度の極寒でたったひとつのパンを購入するために1時間の行列待ち。
時代はまさにソビエト連邦崩壊直後の混乱期ことで、その当時の治安の悪さや乏しい食料事情も思い浮かんできました。
そんな逆境の中でもロシア語を学び単位を取得して、空き時間を見つけては留学生が無料で観劇できるバレエやオペラを見て回ったという逞しい16歳ですね。
「劇場の外は戦争状態、中では身も心も満たされる」という言葉からは、バレエが地元の人たちにとっても数少ない心の拠り所になっていたことが分かります。
いつも客席から見ているだけだった彼女が、いつの日にかステージの上に立ってお客さんを喜ばせたいと決意したのでしょう。
ボリショイ・バレエアカデミーを首席で卒業
パリ国際バレエコンクールでは銀メダルを獲得、会場はシャンゼリゼ劇場で表彰式はフランス大統領公邸で行われるほどの伝統と格式ある大会です。
ドイツのエッセン・バレエ団への体験入団、モナコ王立グレース・アカデミーへの短期留学を終えた彼女が目指す先はアメリカしかありません。
アメリカ5大バレエのひとつボストンバレエに合格
その直後に発生したのが、2001年ニューヨークでの9・11同時多発テロ事件です。
「劇場が次のテロのターゲット」というデマの影響でガラガラの客席、街中至るところに掲げられる星条旗に本番前の国歌斉唱。
活気がなくなったボストンの街並みに加えて、外国人に向けられる冷たい眼差しには胸を痛めていたことでしょう。
入団2年目には足首の三角骨を手術するという、バレリーナにとっては引退を考えるほどの危機が訪れます。
足の不調でボストン・バレエ団の退団を余儀なくされた…その後
国際交流大使としてオーストラリア、タイとの友好150周年を記念したタイでの公演、日本人が足を踏み入れたことのないというシベリア最北端の軍港・ムルマンスク。
その国の文化の違いに戸惑いながらもバレエを通じて現地の人たちと交流を深めていく経験は、コンクールのメダル以上に価値があるのかもしれません。
2011年に東日本大震災が発生した時には、海外の著名人の支援を取り付けてチャリティーイベントの開催に携わっています。
ドイツのバイオリニストのミヒャエル・バレンボイムから、ウクライナの振り付け師ウラジーミル・マラーホフまで。
ひと声あげるだけでジャンルと国境を越えてアーティストが集うのは、彼女の人望の厚さなのでしょう。
「これからも私のキャリアは続いていきます。」という力強いセリフで、本書は締めくくられています。
まとめ
いま現在針山さんは世界方々で講師に招かれていて、その躍進はバレエにとどまることはありません。
国際ワークショップで後進の育成に乗り出すなど、次の世代へ優しい眼差しを注いでいます。
目まぐるしく変化する国際情勢に翻弄されつつも踊り続けていくであろう、ひとりのダンサーからは勇気を貰えますよ。
日々のバレエのレッスンに励んでいる方だけでなく、海外での活動を考えている人たちにも読んでほしいですね。