1909年にパリに突如として現れてヨーロッパ全土を一大センセーショナルへと巻き込んでいった、伝説的なロシアのバレエ団をご存じでしょうか。
「華麗なる「バレエ・リュス」と舞台芸術の世界」は、2020年8月23日にパイ・インターナショナル刊行。
歴史にその名を刻んだバレエ団「バレエ・リュス」が誕生したきっかけ、さらには生みの親であるセルゲイ・ディアギレフの人柄にも迫っているノンフィクション書籍です。
■目次
辺境の地から大いなる革命
バレエ・リュスは2つの点でクラシックバレエの世界に大きな衝撃を与えました。
- 帝政ロシアという閉鎖的な国家と風土が醸し出すミステリアスな雰囲気
- スタイルや仕来たりを打ち破る斬新な発想
一見すると20世紀の初頭には目覚まし近代化を遂げていた、イギリスやフランスの方が最先端のバレエに相応しく思えるかもしれません。
当時のヨーロッパ圏からすると「辺境の地」のレッテルを貼られていた、ロシアが口火を切ったことはまさにバレエ界における革命と言えるでしょう。
伝説の生みの親
そんなバレエ・リュスを一代で立ち上げたセルゲイ・ディアギレフとは、いったいどのような人物だったのでしょうか?
セルゲイ・ディアギレフのプロフィール
- 1872年生まれ
- 出身地はロシア北西部のノヴゴロド州
父親はウォッカの販売で財産を築き上げた地方名士、幼い頃を過ごしたのは西欧の文化が流れ込んでいた「白夜の都市」ペテルブルグ。
若き日には音楽家を志す
リムスキー=コルサコフの教室に通ったりピアノや作曲にチャレンジしてみたものの、挫折してしまったというエピソードがほろ苦いですね。
1895年、あっさりとアーティストになることに見切りをつける
パトロンやプロデューサーへと路線変更をしたところは抜け目がありません。
ディアギレフはバレエの興業やダンサーたちのマネージメントを手掛ける、「インプレザリオ」として広く知られていきます。
ふたりの異才が巡り逢った時
1904年はディアギレフにとっても、バレエ・リュスにとっても忘れられない年になりました。
20世紀の代表的なダンサー、イサドラ・ダンカンの公演をペテルブルグで目の当たりにしたことです。
トゥシューズを履かない、つま先立ちをしない、衣装もチュチュスカートにこだわらない。
ルールにとらわれないファッションとダイナミックな動きに、ディアギレフの一座がショックを受けてしまったのも無理はありません。

公演終了後には楽屋に招かれて、これからのバレエについて熱く語り合ったという逸話も微笑ましいですね。
逆境から這い上がり伝統にチャレンジ
それまでのクラシックバレエの世界では主役は華やかに着飾ったバレリーナ、男性のダンサーはあくまでも脇役。
そんな決まりきった男女の立ち位置を見事にひっくり返してしまったのが、ディアギレフの秘蔵っ子ワツラフ・ニジンスキーです。
ワツラフ・ニジンスキーのプロフィール
ウクライナのキエフで生まれます。
母親は貧しい旅まわりの芸人、父親はニジンスキーが幼い時に若いダンサーと駆け落ち…という逆境にも負けません。
サーカスに入団してアクロバット芸を習得したり、帝政バレエ学校に入学して徹底的に基礎を学んだことでディアギレフの目に止まることになります。
ミハイル・フォーキンが振り付けを担当した「シェヘラザード」ではエキゾチックな奴隷役、ストラヴィンスキーが台本を書き下ろした「ペトルーシュカ」では幻想的な道化師。
バレエ・リュスがパリ・オペラ座で巡業をした歳には超人的な跳躍力を披露して観客を驚かせたというから、天賦の才能と積み重ねた努力は相当なものでしょう。

まとめ
ディアギレフの周りには次から次へと芸術家の卵たちが集まってきたというのは、本人が持って生まれた不思議な魅力のお陰なのかもしれません。
19世紀パリのロココ様式から世紀末のアール・ヌーヴォーはもちろん、イギリスのグラフィック・アートから日本の浮世絵まで。
巻末には交流があった画家たちの描いた美しい油彩画が数多く掲載されているために、画集のように楽しむことが出来ます。
いま現在バレエレッスンを頑張っている皆さんだけでなく、絵画や美術館巡りがお好きな方も是非手に取ってみてください。